11 May 2011

今回、自分の身で感じた大地震の記録。
被害が大きかった地域の状況と比べれば無傷も同然なのですが、ひとつの情報として書き留め、公開しておきます。

居住エリア

千葉県の北部、成田近辺。震度は6弱。

当日のこと

小さなオフィスビルの2階。はじめは震度3程度の揺れ。なかなか揺れが収まらず、やがて経験したことのない大きな揺れに変化。
危険を感じて会議机の下に潜り込んだら、机ががったんがったん音を立てて大きく揺れ出した。何かを叫びながら必死に机を掴んでた。もしかすると建物が倒壊して潰されるんじゃないか、とさえ思った。

この日はたまたま普段よりも早く帰り支度をしており、断続的な揺れが収まるタイミングを見計らって徒歩で帰宅。

自宅のドアを開けたら、玄関に飾ってあったジグソーパズルが床に落ちていて、家の中がただごとでない状態になっていることを把握。こわごわ中に入ると、今までに見たことのない乱れよう……。
一番すごかったのは台所。食器の破片が床に散乱、さらに食器棚の扉の片方がちぎれ落ちていた。オーブントースターはほとんど宙に浮いており、足の一本が棚に引っかかってギリギリ落ちずに済んでいる状態だった。

この日、電話は通じず、携帯メールは送れたり送れなかったり。家のネット回線(Bフレッツ)は意外と普段通り。メールやtwitterで気を紛らわせながら、家の中を少しずつ片付けた。

母が無事に帰ってきて一安心。すぐに食べられるスパゲティで夕食を済ませて、いつも通り入浴して就寝。

翌日以降のこと

毎日続く余震

はじめの数日間は、夜中や早朝も携帯電話から鳴る緊急地震速報の音に起こされ、安眠できない日が続いた。(余震そのものより、地震速報の音のほうに安眠を妨げられていた気がする……。マンションの耐震性を信じて携帯の電源を切ろうかとも考えた)。
最初の地震から10日が経ったけれど、今も毎日余震が続いている。もうずいぶん慣れてしまって、震度3までは平気。震度4になると少し緊張するけど、それでも割と冷静でいられる。

情報疲れ

初めて経験する事態に加えて、神経をすり減らすような情報の洪水も冷静さを奪う要因の一つだった。Twitter、テレビ、日経の速報メール。
インプットする情報を取捨選択したり、積極的に睡眠を取ることで徐々に平静を取り戻していった。こんな時こそフィクションや笑いが大事。

水道水の濁り

幸い我が家では停電も断水もしなかったけれど、地震の翌日から、水道水の色と匂いが若干変わった(赤水)。台所の蛇口にはクリンスイの浄水器を付けて対処。数日経つと元通りになった。
(母の勤務先では、全てのライフラインが数日間途絶えていたとか)

スーパーの品不足

パン・牛乳・卵・豆腐・即席ラーメンやレトルト食品など、すぐに食べられるものほど手に入りにくい状態になった。
20日に買い物に行ったスーパーにはほとんどのものが揃っていたので、うちの地域に関しては概ね正常化していると言ってもよさそう(ただ、納豆は午前中から売り切れ、即席ラーメンと牛乳もかなり品薄だった)。
野菜・魚・肉は初めからほぼ普通に手に入ったし、我が家の食卓には「実家の米」というアドバンテージがあるので、幸運にも食事に困ることは無かった。
地震の翌週は健康維持のために張り切って料理していたから、食事はむしろ地震以前より充実してたかも……)

ガソリン不足

ガソリンや軽油の品切れで、近隣のガソリンスタンドが軒並み閉店状態。たまに在庫が入ったスタンドには行列ができている。
母の通勤と買い物に必要なガソリンは今のところ確保できているし、近々不足が解消される見込みとのことで、これももうそろそろ安心できそう。

地震をきっかけに得たもの

あれから、いろんな人と言葉を交わした。
それが普段以上に心の支えになった。
僕が発する言葉も、誰かの心の支えになれていたらいいなと思う。

少しばかりの募金

いくつかのポイントサイトを通じて、日本赤十字社義援金を寄付。

義援金」は、国内で発生した大規模災害に対して皆さまからお寄せいただくもので、全額を義援金配分委員会(※)に送金いたします。その後、同委員会で立てられた配分計画に基づいて、被災者の方々へ届けられます。
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